第二回「十二夜」

使用テキスト

白水Uブックス シェイクスピア全集『十二夜』小田島雄志 訳

 

 シザーリオ 少女の中の「少年性」

まず最初に自分自身のことなのですが、ライターとしてのポリシーがひとつありまして、ものを書くときの態度として、一行のセリフで一人の人生を表現することはできるんだ。そんなセリフは存在するんだ。それを全身全霊こめて探さなければいけない、といつも自分に言い聞かせながら今まで30本以上の作品を書いてきました。

 

じゃあそんなセリフがあるのか、とお思いになるでしょうがそれがあるんですね。この「十二夜」のなかにある。第三幕第一場90ページの4行目を見てください。オリヴィアのセリフです。

 

 

またいらして。

あなたのお話をうかがって

あの方を好きになるかもしれないわ、

気が変わって

 

 

シザーリオが公爵のラブレターを持ってきた。でも全然興味がない。あなたはいい人、有能で島のみんなから尊敬されて人間としては申し分ないけれど、生理的に受付けないの。

「あの方を好きになるかもしれないわ」って言ってますけれどそんな気は全然ない。好きなのは目の前にいるシザーリオなのだから。あなたにまた会いたい、と心の中で叫んでいるわけです。

このセリフが私にとって人生最高のセリフであり、目標としているものです。

ずるがしこさがある。プライドの高さがある。恋をする女性の切実な思いがある。それでいてかわいらしい。

たった2行のセリフでオリヴィアがどんな性格なのか、どんなふうに育てられて、どんな人生を歩んできたのかきたのかがなくとなくわかる。そしてなおかつオリヴィアのことが好きになる。

紙の中だけにいる登場人物が、そこに本当にいるようにリアルに感じられる。

私もいつかこんなセリフを書きたい。探せば必ず見つかるんだ。そういう思いで私も頑張っているときは頑張っているわけです。頑張ってないときは全然頑張ってないのですが。()

 

今回取り上げるのは「十二夜」です。「ハムレット」とほぼ同時期に書かれました。最後のロマンティック・コメディといわれ、このあと「オセロ」「マクベス」「リア王」へと暗黒の時代が始まります。

 

「十二夜」という作品はシェイクスピアの作品の中でとても人気が高い作品ですが、嫌いな人ももちろんいるかと思いますが、その人はこんなふうに批判するわけです。「なんだ顔がよけりゃいいのか」と。オリヴィアはセバスチャンと結ばれますが、顔がシザーリオとそっくりというだけで彼女は彼のことをなにも知らない。名前さえも実は知らない。それなのに結婚してしまう。この作品を好きだという人も、ここにはちょっとした引っ掛かりを覚える人が少なからずいるとは思うのですが、許せてしまう。固いこと言わずに、まあいいじゃないの。お芝居なんだから、と。

しかしここを通り過ぎずに、ちょっと待ってほしい。

 

なぜオリヴィアとセバスチャンの結婚を観客はすんなり許せてしまうのか。

なぜ結婚式は二つ必要だったのか。

なぜ同時に結婚式を行わなければならなかったのか。

 

 

実はここに「十二夜」がほかのロマンティクコメディと違って世界中で愛される名作となった理由があるのです。

 

*   *   *   * 

 

タイトルにもなっている「十二夜」というのは12月25日から12番目の夜である1月6日。クリスマス祝いの最終日でもあり、夕方から深夜にかけて無礼講のばか騒ぎが行われるそうです。この作品は「十二夜」である必要はないわけです。ではなぜタイトルを「十二夜」にしたのか、説が二つあります。

まず第一にサー・トービーとその周辺にいる人たちが乱痴気騒ぎを繰り広げますが、それだけではなく、女性から男性へと変装したヴァイオラをはじめ、舞台となるイリリア全体が異次元的イリュージョンの世界なのだ、と。一番有力なのがこの説です。

もう一つの説ですが、この劇の初演はエリザベス女王がトスカーナのオーシーノ公爵を招いた時だった。シェイクスピアはお客様を主人公にして劇を書き、それを上演した日が十二夜の晩だった、1601年の16日。そんな説もあります。しかしオーシーノーがイングランドにやってくると決まったのはその11日前のことだった。さすがに11日間で台本を書き、稽古をするのは無理だろうと異を唱える研究者も多いです。

しかし私は後者だと思います。超短期間で作品を完成させた、なんて話はいくらでもあるし、もしかしたら(根拠のない想像ですが)途中まで書きかけていた手ごろな原稿があったのかもしれないし。

 

それに女王陛下から大金を積まれて11日後に0から始めて劇を上演してちょうだい、お願いだから、と頼まれたら……やりますよね。

 

 *   *   *   * 

 

シェイクスピアが活躍した時代、つまり16世紀、17世紀のイギリスには女優はいませんでした。女性役は声変わりする前の少年俳優が演じていました。劇場はいかがわしい場所で、役者たちの地位も低かった。シェイクスピアの劇団は宮内大臣一座、国王一座と呼ばれたように強力なパトロンがいて、シェイクスピアは裕福な生活を送ることができました。前回お話しましたが、作家として儲けたわけではない。著作権という概念はなく印税はまったく入ってこなかったのですが、興行師としてビジネスの才能があった。劇団の中枢メンバーとして富を得て、故郷のストラトフォード・アポン・エイボンで一番大きな家を妻子のために買ってやることができたのです。

 

パトロンがつかない劇団の役者たちはどうだったかというと、ロンドン市には条例がありました。

 

「貴族または高位高官に召し抱えられた役者を除いて、役者は浮浪人、怠け乞食とみなされ処罰される」

 

日本でも河原乞食と呼ばれていましたけれど、みなさんの先輩はそんな苦しい状況から苦労して現在の地位を築いたことは知っておいてもいいのではないでしょうか。

汚らわしい演劇の世界に女性が足を踏み入れるなんてとんでもない。ということでイギリスで女優が登場するのは17世紀後半の王政復古の時代になってからです。ちなみにイタリアやフランスではそのような習慣はなく、女性役は女優が演じていました。

 

つまりこの作品は少年俳優が、男装する女性を演じた、というジェンダーの逆転が入り組んでいまして、それをいじった楽屋落ちのようなヴァイオラのセリフもところどころでてきます。

 

 

 

 

 *   *   *   * 

 

「十二夜」における一番の重要な人物は誰でしょうか。

それはマルヴォーリオだ、という演出家のたちがいます。彼こそが隠れた主役なのだと。マルヴォーリオに一番のスターを起用して、マルヴォーリオいじめを(私はあまり好きではないのですが)最大の見せ場にするという演出も数多いです。

フランキー堺さん、北村和夫さん、橋爪功さん。最近では近藤芳正さん、蜷川さんの歌舞伎版では尾上菊五郎さん。海外ではナイジェル・ホーソン。ヴィヴィアン・リー主演の十二夜ではなんとローレンス・オリヴィエがマルヴォーリオを演じています。

 

それはそれとしてオーソドックスに考えて一番のキーパーソンは誰でしょうか。

 

ヴァイオラ? 違います。

ヴァイオラではなくて「シザーリオ」です。

 

主人公のヴァイオラはシェイクスピアの全作品の中でも人気の高いキャラクターですが、男性に変装しシザーリオとして生活をする。ヴァイオラと本当の名前で呼ばれるのは最後のシーンにおいて3度だけです。ヴァイオラとして登場するのは島に流れ着いたシーンと、ラストシーンだけで、そのほか劇中のほとんどをシザーリオとして生きている。

ヴァイオラは自分を押し殺している、自分を表に出さない、だからこそ切なさが強く伝わる。そんなパラドックスがあるのではないでしょうか。

 

1986年に野田秀樹さん演出、大地真央さんがヴァイオラとセバスチャンの二役を演じた「野田版・十二夜」という舞台がありました。野田さんといえば夢の遊眠社で一世を風靡して、今でも日本を代表する演出家の一人です。好きな人がこの中にもいるかもしれません。野田秀樹さんは大胆に原作を改変し、賛否両論があったのですが、それでもフィナーレは評論家をはじめとする目の肥えた人たちをうならせたんですね。登場人物が勢ぞろいする。その中に案山子が混じっている。シザーリオの服を着ているのです。シザーリオの抜け殻を登場させて、「彼はいなくなってしまった」ということを強く意識させた。そのことが大きく評価されました。

 

シザーリオを中心に考察をさらに進めていきます。

シザーリオとは何か。いよいよ物語の核の部分です。

それは少女の中に存在する「少年性」です。心の中の異性ですね。

 

こんなことがよくあるそうです。思春期の少女がある日突然自殺する。周囲のものは誰も原因がわからない。みんな首をかしげる。

思春期になるとどんどん体は女性になっていく、それまでの体を破壊するかのような大きな変化です。でも心はそれについていけない。「少年性」が強く心に残っていて、折り合いをつけることができない。そして少女は大人になることを拒否する。「少年性」と一緒に自分の肉体を破壊する。すなわち死を選んでしまう。こんな悲劇が現実にいくつも起きているそうです。

 

この作品はヴァイオラが自分の仕掛けた「少年性」という呪縛に縛られたあげく、最後はその衣装を脱ぎ捨てて女性になって幸せになる、という成長物語であると読むことができます。

 

しかしそれで終わってしまったら観客は意識の部分ではハッピーエンドで嬉しいことは嬉しいのですが、無意識の領域で大きくがっかりするわけです。

 

あきらめてはいたけれどやっぱりそうだよね。

シザーリオは置き去りにされるんだよね。

 

おそらくすべての女性がそうだと思うのですが、誰でもかつて心の中にシザーリオを持っていたのです。

私の方が足は速かったのに。私の方が野球はうまかったのに。

しかし中学高校と成長していくなかで、子どものころは大切な友達だったシザーリオをどこかに置き去りにしてきた。それが大人になるということです。男性だってそうです。ヴァイオラがいたけれどどこかに置いてきてしまった。

 

自分の中のシザーリオが無意識の奥深いところにいて、一緒にこの作品を見ているんです。

 

子どもから大人になる成長物語は古今東西に五万とあります。100万を超えるかもしれない。「がんばれベアーズ」もそうでした。「おおかみこどもの雨と雪」もそうでした。

 

そのほとんどすべてが心の中の異性と最後はお別れするのです。

 

しかしこの「十二夜」はそうじゃないんですよ。シザーリオはセバスチャンが引き取ってくれるんです。シザーリオは死なずに生き続ける。しかも結婚して幸せになれるんです。だからこそ。観客は心から安心するのです。感動するんです。多少リアリティが欠けていようが、そんなものはどうでもいいんです。

 

それにしてもいびつな結婚です。オーシーノーもオリヴィアもどちらも「シザーリオ」と結婚したわけです。ヴァイオラでもないし、セバスチャンでもない。ハッピーエンドではあるけれど、心の片隅にはこんな結婚はうまくいかないんじゃないの、といった影を残しています。

影といえば、ハッピーエンドの大団円でありながら、いない人間がいる。マルヴォーリオがいない。それは当然としてもサー・トービーがいない。マライアがいない。サー・アンドリューがいない。幸福に締め出された人がいる。

そんなこの作品の陰りが、単に能天気なハッピーエンドに収まらずに、奥深さを与えているのかもしれません。

 

以上で解説を終わらせていただきます。朗読にうつりましょう。