第7回シェイクスピア勉強会「じゃじゃ馬馴らし」
今回取り上げる作品は「じゃじゃ馬ならし」です。私の第一印象もそうだったのですが上演するのがとても難しい作品だと言われています。
凶暴な奥さんがいて、調教して、夫の言うことを聞く貞淑な女房につくりかえる。女性のみなさんいかがですか? むかつきますね。
シェイクスピアの作品は現代の常識にはそぐわないとされている作品もいくつかあります。たとえば「ヴェニスの商人」なんかそうですね。悪徳商人シャイロックが主人公に借金のかたに約束通りおまえの肉をよこせと要求すると、裁判官に変装した恋人のポーシャが「肉をとるがいい。そのかわり血を一滴も落としてはならない」という名裁きでシャイロックをやっつける、という話ですが、シャイロックは悪徳ユダヤ人という設定で、それはちょっとよろしくないということで、シャイロックの背景にユダヤ人の苦難の歴史があり、過酷な人生が彼を変えてしまった、そういう側面を強調する演出も多いそうです。アル・パチーノが主演の映画もそうでしたね。しかしそれがうまくいっているかといいますと私はちょっと疑問ですね。
この作品もそうです。男女差別の最たるものだ、と多くの人々のひんしゅくを買っています。
では上演回数が少ないか、というと決してそんなことはない。現在でもとても人気が高く、上演回数も多い作品です。
現代の観客にみせるということをふまえて、ネガティブな側面を和らげるために様々な工夫がこらされることがあります。出演者を全員男にする。あとでちよっとお見せする蜷川さんの舞台もそうでした。出演者をすべて女性にする。キャタリーナとペトルーチオのロマンスを全面的に出す。フェミニズムの観点から問題劇として提示する、など。細かい修正を入れながら現代にいたるまでたくさんの観客を楽しませている作品です。
みなさんご存知の通り昔は男女差別は激しかったわけですが、それでもさすがにこれはまずいだろう、と思う男性も皆無ではなかった。バーナード・ショーという有名な劇作家でイギリス近代演劇の確立者といわれる有名な方が、「女性の観客と一緒に観ることに困惑を禁じ得ない。」という感想を1897年に述べています。
シェイクスピア自身も同じような居心地の悪さ、罪悪感を感じていた、と主張する研究者もいます。スライを登場させたことがそれですね。領主にされてしまった酔っ払いがみせられる劇中劇という設定です。つまりこれは現実ではないんですよ。本当はこんな風には思ってないんですよ女性のみなさん、と言い訳をしているのだという人もいます。
なぜスライが登場するのか。これもこの作品の不思議なところで解釈がひとによって大きく分かれますが、アイデンティティは周囲から認められて初めて確かなものになる。本当はそうではないのに周囲から「あなたは領主様だ」と言われ続けていたら本当に領主だと思い込んでしまう。それぐらい自分が何者なのかということは怪しいのだ、とかスライは領主にかわる。キャタリーナは従順な妻にかわる。スライは変容がテーマですよと予告しているのだ、などといわれています。
ペトルーチオも本当は乱暴な人間ではなく思いやりがある人間なのだ、と主張している研究者もいます。彼が働く乱暴の数々はふだんキャタリーナがしている行動であり、自分が人からどのように見えているのか伝えようとしているのだ。キャタリーナ自身、よろこんでじゃじゃ馬な態度をふるまっているのではなく、おおきな疎外感を感じている。第2幕第一場のビアンカを殴るシーンで訴えていますね。そんな彼女をペトルーチオが救ったのだ、というのですね。
その逆に、キャタリーナは本当に従順になったわけではないのだ。月が出ていてペトルーチオが「あれは太陽だ」というと、キャタリーナも「あなたの言う通りあれは太陽ね」というシーンがありますが、ずっと彼女は自分以外のものを演じるゲームを続けているにすぎないのだ。キャタリーナだけでなくビアンカもまた腹の底には黒いものを抱えていて、結婚したら態度を変えるのだ。そんな男性には屈しない女性のしたたかさを描いているのだ、という解釈もあります。蜷川さんの舞台では最後にビアンカの腹黒さも表現していますね。
そんな「じゃじゃ馬馴らし」今日一日かけて皆さんと楽しく勉強していきたいと思います。